


まずは、この「全額おろしておけば安心」という考え方が、なぜ生まれるのかを見てみましょう。
「生前に全額おろしておくとよい」と言われる理由は、主に2つです。
1つは、口座が凍結されると当面のお金に困るため、その前に引き出しておこう、という凍結回避の発想です。
もう1つは、預金を減らしておけば相続税が下がるのでは、という相続税対策への期待です。口座からお金がなくなれば、その分だけ相続財産が減ると考えるわけです。
どちらも、次に見るように、実際にはうまくいかないことが多いのです。むしろ、あとで説明する新たなトラブルを招くこともあります。
結論から言うと、ただ全額をおろして手元に置くのは、あまりおすすめできません。
口座凍結は死亡と同時に起こるわけではなく、あわてる必要はありません。
また、現金にしても相続税は基本的に変わらず、むしろ「そのお金は何に使ったのか」で、あとからもめやすくなります。
つまり、全額おろすことは、安心どころか新たな火種を生みかねません。「おろせば安心」ではなく、目的に合った正しい備えをするのが得策です。

「全額おろす」という発想の前提になっている口座凍結。まずは、その仕組みを正しく押さえましょう。
「亡くなった瞬間に口座が止まる」と思われている方が多いのですが、そうではありません。
銀行は、名義人が亡くなったことを自動で知るしくみを持っていません。役所に死亡届を出しても、その情報が銀行に伝わって自動で凍結される、ということはありません。
つまり、亡くなってからも、これまでどおり引き出せる状態が続くことが多いのです。だからこそ、「凍結が怖いから今すぐ全額」と急ぐ必要はありません。
口座が凍結されるのは、銀行が名義人の死亡を把握したタイミングです。たとえば、遺族が銀行に連絡したときなどです。
つまり、遺族が動くまでに凍結されることはあまりなく、「急いで全額おろさないと間に合わない」というわけではないのです。
凍結のしくみや、凍結後に必要な相続手続きは、次の記事でくわしく解説しています。
いったん凍結されると、その口座からの引き出しはもちろん、公共料金や家賃などの引き落としも止まります。引き落としが止まると、料金が未払いになってしまうので、早めに支払い方法を切り替えておくと安心です。
ただし、凍結後でも正しい手続きを踏めばお金は引き出せます(あとで解説します)。凍結を過度に怖がって、あわてて全額おろす必要はありません。
では、あえて全額おろすと、どんな問題が起こりうるのでしょうか。主なリスクを4つ見ていきます。
まず、全額おろしても相続税は基本的に減りません。
相続税は、亡くなった時点の財産に課税されますので、預金を現金にして手元に置いても(いわゆるタンス預金でも)課税の対象です。
むしろ、多額の引き出し履歴は税務署に把握されやすく、申告から漏れていると、あとで重い追徴課税を受けるおそれもあります。税務署は、預金の動きを調べることが可能だからです。「現金にすれば見つからない」という考えは危険です。
大きなお金を引き出すと、「そのお金は何に使ったのか」を、あとで説明する必要が出てきます。
使い途の記録がないと、ほかの相続人から「勝手に使ったのでは」と疑われがちです。説明できないお金は、もめごとの火種になります。
特に、まとまった額を一度に引き出すと、「何のために動かしたのか」を後日きちんと示せるかどうかが問われます。おろすこと自体より、使い途を説明できる状態にしておけるかが大切です。
親の世話をしている家族が預金も管理しているということが多いと思いますが、ほかの相続人から使い込みを疑われることがあります。
「思っていたよりも残高が少ない」というだけで、疑心暗鬼が生まれてしまいます。実際に引き出したのかどうかとか、使い込んだのかどうか、という問題に入る前に、そもそも記録がなければ争いになりやすいのです。
たとえば、同居して介護していた子が親の生活費を管理していただけでも、離れて暮らすきょうだいから「使い込んだのでは」と疑われる、といったことが起こります。
実際に、弁護士ドットコムの「みんなの法律相談」にも「亡くなった父の貯金が生前に聞いていた額よりずっと少なく、身近で世話をしていた姉が引き出して使っていたのではないかと、ほかの姉妹が疑っている」という相談が寄せられています。
特定の相続人が生前に多くの財産を受け取っていると、遺産分割で不公平が問題になります。
生前にまとまった金額の贈与を受けるとそれが特別受益として扱われ、遺産分割で持ち戻して計算されることがあります。特別受益とは、生前贈与などによって受けた特別な利益をいいます。
さらに、生前贈与がほかの相続人の最低限の取り分(遺留分)を侵していれば、遺留分侵害額請求の対象になることもあります。よかれと思った生前の受け渡しが、かえって争いのタネになるわけです。
特別受益の持ち戻しや具体例は、次の記事でくわしく解説しています。
「みんなの法律相談」にも、「親が祖母の生前に、ほかのきょうだいに知らせないまま財産の贈与を受けていて、遺留分をめぐって争いになっている」という相談が寄せられています。
一方で、引き出しがすべて悪いわけではありません。問題になりにくいのは、次のような場合です。
引き出したお金を、本人(親)の医療費・介護費・生活費など、本人のために使うぶんには、基本的に問題になりにくいです。本人のお金を本人のために使っているだけだからです。
たとえば、施設の費用や入院費を親の口座から支払うのは、ごく自然なことです。問題になりやすいのは、家族が自身のために使う私的な使い込みのほうです。
使い途は「本人のため」の範囲にとどめ、あとで説明できるようにしておくことで、争いを避けることが可能です同じ引き出しでも、使い道が本人のためかどうかで意味が大きく変わります。
どんな場合でも、あとで説明できるように、引き出した日付・金額・使い道がわかる記録や領収書を残しましょう。
そのうえで、ほかの相続人にも「何に使ったか」を共有しておくと、疑いを防げます。記録は、のちに立て替え分を精算するときにも役立ちます。
「凍結されたら当面のお金に困る」という不安には、別の備え方があります。あわてて全額おろす必要がない理由を見ていきましょう。
口座が凍結されても、遺産分割の前に、各相続人が一定額を単独で引き出せる払戻し(仮払い)制度があります(民法909条の2)。
葬儀費用や当面の生活費のために使える制度です。「凍結=1円も引き出せない」ではないので、あわてて全額おろす必要はありません。
この制度があるおかげで、生前に無理して現金を用意しておかなくても、いざというときに必要なお金を用意できます。

引き出せる上限は、「相続開始時の預金額 × 3分の1 × その人の法定相続分」で計算します。さらに、同じ銀行からは150万円までという上限があります。
たとえば預金1,200万円・法定相続分2分の1なら、計算上は200万円ですが、1つの銀行では150万円が上限になります。
この上限は銀行ごとに数えるので、複数の銀行に口座があれば、それぞれで請求できます。葬儀費用など当面の支払いには、多くの場合これで足ります。
借金のほうが多いなどで相続放棄を考えているなら、故人の預金には手をつけないのが原則です。
預金を引き出して私的に使うと、「相続を受け入れた」とみなされ(法定単純承認)、相続放棄ができなくなるおそれがあります。
相続放棄が認められなくなる行為は、次の記事で整理しています。
「おろす」よりも効果的な備えがあります。目的別に、大きく3つの打ち手を押さえましょう。加えて、口座情報の共有もしておくと安心です。
備え | 主な目的 | 向いているケース |
① 遺言 | 預金の引き継ぎ先を決めておく | だれに何を渡すか決めておきたい |
② 家族信託 | 判断能力の低下などに備える | 認知症などで管理できない不安がある |
③ 生前贈与 | 計画的に財産を渡す | 元気なうちに少しずつ渡したい |
1つ目は、遺言です。だれにどの預金を引き継ぐかを遺言で決めておけば、遺産分割の話し合いがいらず、名義変更や引き出しもスムーズになります。
とくに公正証書遺言にしておくと、形式の不備などで無効になる心配が少ないので、安心です。自分で書く自筆の遺言は手軽ですが、書き方を誤ると無効になることもあります。
財産ごとに引き継ぐ相手を決めておけば、残された家族が迷わずに済みます。もめごとを未然に防ぐ、もっとも基本的な備えです。
遺言書の種類や書き方は、次の記事でくわしく解説しています。
2つ目は、家族信託です。家族信託とは、信頼できる家族に財産の管理を任せておくしくみです。
契約しておけば、家族が代わりに預金を管理・活用できます。口座凍結だけでなく、認知症によって財産管理ができなくなったというような事態にも備えられるのが強みです。
判断能力が失われてからでは契約できないため、家族信託は判断能力があるうちにしか始められません。認知症で預金の管理が心配な家庭などでは、検討する価値があります。
家族信託が必要なケースと注意点は、次の記事でくわしく解説しています。
3つ目は、生前贈与です。元気なうちに、計画的に財産を渡していく方法です。
ただし、年110万円を超える贈与には贈与税がかかることがあり、亡くなる前の一定期間の贈与は相続税の計算に加算されます。
また、毎年同じ額を同じ時期に贈与すると、まとめて1つの贈与とみなされて課税されることがあります。贈与のたびに契約書を作るなど、進め方にはコツがいります。
また、一部の相続人だけに偏ると、特別受益や遺留分でもめる原因にもなります。進め方や税金の見通しは、弁護士や税理士に相談しながら決めると安心です。
どの対策をとる場合でも、どの銀行に口座があるか、通帳や印鑑がどこにあるかを、家族と共有しておきましょう。
情報がないと、遺族が口座の存在に気づけず、手続きが遅れます。使っていない口座や、ネット銀行の口座は特に見落とされがちです。
暗証番号まで共有する必要はありませんが、どこの銀行に何があるかだけでも伝えておくと、いざというときに家族が動けます。エンディングノートなどに書き残しておくのも有効です。
「凍結されたら葬儀代に困る」という不安にも、全額おろす以外の備え方があります。
生命保険は、受取人を指定しておけば、その人がまとまった現金を比較的早く受け取ることができます。
受取人が指定された保険金は原則として遺産分割を待たずに受け取れるため、葬儀費用や当面の生活費に充てやすいです。「凍結される預金」ではなく「すぐ使える現金」を残す方法として有効です。
受取人を決めておけるので、渡したい相手へ直接お金を残しやすい点もメリットです。ただし、受取人の決め方によっては相続税の扱いが変わるため、加入前に確認しておくとよいでしょう。
当面の資金は、生命保険と払戻し(仮払い)制度で備えるのが現実的です。
生前は生命保険で受取人に現金を用意し、死亡後にそれでも足りなければ払戻し制度を使う、と分けて考えられます。
この2つを組み合わせれば、口座を凍結されても当面の資金に困りにくくなります。こうしておけば、無理に全額をおろして手元に置く必要はありません。
親に頼まれて、本人のために引き出すぶんには、基本的に問題になりません。
ただし、親に無断で引き出して自身のために使うと、本人に対する使い込みとして返還を求められることがあります。親族の間では刑事上の罪には問われにくい一方、民事の返還責任(不当利得、不法行為)は残る点に注意しましょう。
いずれにしても、引き出すときは本人の同意を得たことと使い途の記録を残しておくのが安全です。
はい。おろして現金にしても、亡くなった時点で残っていれば相続財産として課税の対象です。
また、亡くなる前の一定期間内に贈与した分は、相続税の計算に加算されることがあります。この期間は近年、段階的に延長されています。
「おろせば課税されない」ということはないと考えておきましょう。相続税がかかるかどうかは、ほかの財産との合計や基礎控除で決まるため、心配なときは税理士に確認すると確実です。
遺言や家族信託、もめごとの心配は弁護士に、相続税のことは税理士に相談できます。
どこに相談すべきか迷うときは、まず弁護士に相談すれば、必要に応じて税理士など他の専門家にもつないでもらえます。元気なうちに相談しておくほど、選べる対策が広がります。
「生前に預金を全額おろしておけば安心」とは言えません。
口座は死亡と同時に凍結されるわけではなく、現金にしても相続税は変わらず、かえって使い込みの疑いなどでもめる火種になりがちです。
本人のための支出は記録を残せば問題になりにくく、当面のお金は払戻し制度や生命保険で備えられます。もめない備えの中心は、遺言・家族信託・生前贈与の3つで、あわせて口座情報を家族と共有しておくと安心です。
「どの備えが自分の家族に合うのか」「すでにおろしてしまったが大丈夫か」——迷ったら、早めに専門家に相談すると安心です。
生前対策は、元気なうちにしか選べない選択肢も多く、先延ばしにするほど選択肢が狭まります。まずは弁護士への初回相談で、あなたの家族に合った備え方を確認してみましょう。

1999年京都大学法学部卒、郵政省・総務省などの勤務を経て、2008年弁護士登録、2024年1月、大阪市北区堂島に「田阪法律事務所」を設立。相続全般について豊富な経験を有し、特に財産の使い込みや遺言無効といった難しい案件に注力している。